浄土真宗に「西」と「東」があるのはなぜ?

浄土真宗に「西」と「東」があるのはなぜ?
この疑問を持つご門徒さんが多かったので、これを検証してみます。

 まず、「西」と「東」というのは派閥の事です。
 自民党の中にたくさんの派閥があるように、浄土真宗にも派閥があったんです。
 浄土真宗本願寺派(お西)、真宗大谷派(お東)、真宗高田派、真宗仏光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派、と主なところで十派あります。
 元々、「西」と「東」は同じ宗派だったのですが、ある事件で別れてしまいました。
その事件とは・・・

一四九六年、現在の大阪城が建っている場所に石山本願寺というお寺が建てられました。本願寺復興の立役者蓮如上人が隠居坊として住んでおられたため大変発展し、町が形成されたのです。
※石山という丘に沿った坂に本願寺周辺の寺内町が形成されたのでこの辺りを小坂→後に大阪と呼ばれる事になりました。

 その後本願寺派の本山として発展しましたが、全国統一を狙う織田信長に目を付けられて全面戦争になってしまいました。
 全国の門徒から淀川を経由して援助物資が運ばれたりして、なんと、十年にも及ぶ戦いになってしまったんですが、最後には両者和睦の方向に向かいました。
 しかし、当時の織田信長との和睦を進める門主(本願寺の長)と徹底抗戦派の門主の息子が二手に別れる事になり、「西」と「東」に分かれる原因となったのです。
 我々の浄土真宗本願寺派は、豊臣秀吉から京都七条堀川に寄進を受けて西本願寺が建立されました。その後、徳川家康から西本願寺のすぐ東の六条烏丸に寄進され、東本願寺が建立されています。
※幕末期の西本願寺は京都を守る剣客集団「新選組」の本拠地にもなったそうです。